4歳のときに父親を亡くし、末っ子の木村氏を含むきょうだい4人は、母親の女手ひとつで育てられた。航空パイロットを目指して15歳で航空自衛隊に入隊した木村氏だが、10代後半に不慮の事故で眼を悪くして退官。中央大学法学部通信課程に進み、学費と生活費を稼ぐために百科事典のセールスなどに励んだという。
その後、水産会社に入社し1979年に独立。起業してコンビニ、カラオケボックス、レンタルビデオ店などを独自アイデアにより展開するも、1998年の金融危機により業績は順調であり一度も返済を滞らせたこともなかったにもかかわらず、当時のメインバンクによる理不尽な仕打ちにより事業を清算。どういうことかというと、「私の不在時に、融資を受けていたメインバンクがやってきて、手形の書き替えだと聞かされた女房が私の代理でサインしてしまったのです。しかし後で書面をみると数千万円もの借入金を一括で返済しますという内容でした。それまで弊社は一度も返済を滞らせたことがない優良貸出先のはずでした。しかし突然、数千万円もの大金を一括で返済しろだなんて。本当にひどい話です。後に、そのメインバンクは業績の悪化で倒産しまいましたが」と木村氏。
その時、頭が真っ白になった木村氏は、うかつにサインをしてしまった奥さんを責めて、泣かせてしまったというが、「反省しました。女房を泣かせてまでして、自分は何のために働いているのかという気持ちでいっぱいになりましてね。会社を整理して撤退しようと考えて、ビジネスパートナーに事業を引き取ってもらい清算したのですが、友人たちが止めるなと励ましてくれたのです。」その声に後押しされ、手元に残った300万円を元手に、「すしざんまい」の前身、「喜よ寿司」をオープン。高品質でリーズナブルな同店は瞬く間に行列店となり、年間利益も2000万を超した。
これが評価され、年間来場者数が150万人(現在は800万人超え)を切るほどに落ち込んでいた築地に集客してほしいと、市場関係者から頼まれたという。「この場面でも、誰もやってこなかった寿司屋の24時間年中無休営業を思いついて実践しました」という。こうして誕生した「すしざんまい」は、首都圏を中心に全国へと展開していくこととなる。マグロの安定供給を図るために、木村氏自身が世界中に出向いて交渉することもある。バンクーバー沖やメキシコ沖、スペイン沖など、マグロが回遊する世界の海にネットワークを張って、旬の時期の一本釣り、定置網などの漁法を地元漁師に教え、成魚だけを獲って沖合に生簀を作り備蓄しているという。
約束の5分前到着を心がけ、家族を愛し、苦労をかけた母親への愛情を心の底に置いて、このように壮大なビジネスモデルを着想・実行・実現して成功を掴んだ木村氏。
そんな木村氏がこの先どの様にビジネスを展開して行くのか、目が離せない。
株式会社喜代村 代表取締役社長
千葉県出身。1968年、中学卒業後、パイロットを目指し航空自衛隊に入隊。第4術科学校を卒業後、18歳で大検に合格。航空操縦学生になる資格を得たが、事故で目を患い断念し1973年に退官。その後、中央大学法学部通信教育課程に入学。1974年、在学中に勤務していた大洋漁業(現マルハ)の関連会社である新洋商事に入社。1979年、大学卒業。同年6月、木村商店(喜代村の前身)創業。魚介類の仕入れ・卸売り・養殖、弁当販売、移動式カラオケ、レンタルビデオ、屋台村、など90以上の事業を展開。1985年、株式会社 喜代村設立。2001年4月、築地場外に日本初の年中無休、24時間営業の寿司店『すしざんまい本店』を開店。
*このインタビューは2015年12月に行われた物です。