アートディーラー/解説者として知られる、三井一弘氏による本連載。「現代アート」を中心にその魅力に迫っていくが、前回までイントロダクションとして、アートの歴史を解説していて、いよいよ現代までの流れがわかることに。ーーー
【19世紀~現代:美術アカデミー解体の時代】
〜サロンの時代から個人的方向へ。フランスからアメリカへ、そしてグローバルへ〜
18世紀末~19世紀の前半、欧州でアカデミーを中心に美の理想を求める新古典主義が台頭すると、それに対抗し、自由な発想で感情や情熱を表現する「ロマン主義」が生まれました。テオドール・ジェリコーやウジェーヌ・ドラクロワが代表的な作家です。
さらに、次なるアンチ古典主義として誕生したのが「写実主義」です。非現実的な理想美を求めるアカデミーに対して、現実をありのままに表現しようとした写実主義は、美術の新たな潮流になりました。
写実主義の旗手として権威に抗ったのは、フランスのギュスターヴ・クールベです。先述の通り、19世紀中ごろになるとアカデミーは完全な権威になり、審査に通らないとサロンに出展できないという状況…。この時代、サロンに入選しなければブルジョワジーの顧客は目もくれません。作家にとっては死活問題で、そしてクールベはことごとく落選していました。というのも、彼はアカデミーが理想とする古典を否定し、自分の目で見た「今」を描いたためです。代表的な作品である、田舎の葬儀に集まった名も知れぬ村人たちを描いた「オルナンの埋葬に関する歴史画」は、まさにそれ。「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式」のような本来の〝歴史画〟とは異なる尺度で描いた作品は、当時としては非常識で前代未聞となりました。「目に見えない天使は描けない」と発言し、リアリズムを追求したのですが、半権威的で革新的な絵画の世界は、後の印象派の道筋を作ります。
印象派の誕生
ちょうどこの頃、ある2つのものが発明され、それらが大きく作用したとも言われています。
一つが「カメラ」です。写真の登場で、絵画は本物そっくりに描く意味が失われました。
そしてもう一つは、持ち運びできるチューブ入りの絵の具。それまで、画家はアトリエ内で作品を描かざるを得なく、どうしても色調は暗くなりがちでした。ところが19世紀後半、外に持ち出せる絵の具の登場で、常識にとらわれず太陽が輝く野外へと制作の場を求める作家たちが現れ始めたのです。
こういった若き画家たちは権力を振るうアカデミーに反旗を翻し、1874年に第1回の展覧会を開催します。そこに印象派の巨星、クロード・モネによる「印象、日の出」が出品されていて、そこから「印象派」という呼び名が生まれました。モネは移ろいゆく光を素早く描くため、絵の具を混ぜるのではなく、チューブから出した絵の具をそのままキャンバスに何色も重ねて光の様子を表すという手法を確立し、光の魔術師と称えられたほど。このあくなき探求心は、現代アートの作家にも多大な影響を与えています。
そんな、印象派の父として知られるモネには、面白い逸話も。
1863年、モネが22歳の時、彼は画家になることを父親に反対されていましたが、サロン画家のグレールのアトリエに入ることを条件にパリにでることを許されます。
ある日、アトリエでモデルを前にデッサンをしていたモネに対してグレール先生は「悪くないが…胸は重いし肩はいかつい、足が太すぎる」と注意を促します。
ところが、モデルを忠実にデッサンしていたモネは「先生、見たままにしか描けません」と答えると、先生は次のように答えたそうです。「古代ギリシアの彫刻家プラクシテレスはね、100人のモデルからそれぞれのパーツの一番いいところだけを使い、ひとつの完全な理想的傑作を作り出したものだよ。何かを描くときは古代を念頭に置かないとダメなんだ」
「見たままを描きたい」、そう描きたいモネにとって権威は受け入れがたい存在でした。彼は、このアトリエで後の印象派をけん引する仲間となる、ルノワール、バジール、シスレーの3人と出会っていましたが、その晩「ここは僕らにとって有害だ、抜け出そう!」と計画を立て、2週間後にはそれを実行しました。