鉄鋼王として有名なカーネギーはロックフェラーに次いで史上2番目に大きな資産を築いた人物として知られる。大富豪というイメージでは、ロックフェラーよりも有名かもしれない。カーネギーは人生の後半は慈善活動に費やしたことでも知られる。ニューヨークにある音楽の殿堂「カーネギーホール」はもちろん彼の手によるものだ。また教育にも熱心で、生涯を通じて3000もの図書館を寄贈したともいわれている。
すべての原点は子供時代の図書室
カーネギーほど、効率良く大きな資産を築いた人物はいないと言われているが、その基礎となったのは読書である。本人もそれを強く自覚しているからこそ、図書館の建設に尋常ではない金額を寄付したものと思われる。
カーネギーは多くの人が米国人だと思っているが、生まれはスコットランドで、13歳の時に両親とともに米国にわたっている。暮らしぶりは悪く、生活のために織物工場で働き、その後、電信配達員の仕事をした。この時にカーネギーは非常に貴重な体験を得ている。
近所に住んでいた軍人のアンダーソン大佐が、働く子供たちのために自宅の書斎にある400冊の本を自由に閲覧させていたのだ。カーネギーは足繁く、アンダーソン大佐の家に通い、彼の蔵書を片っ端から読み漁った。これがのちの彼の成功を形作ったといわれている。
またこの仕事は劇場に自由に出入りすることができたので、彼は自然とシェイクスピアの演劇のファンになったといわれる。この時、芸術に触れる経験を持ったことが、後にカーネギーホールを建設する原動力となった。
もっとも電信配達員の仕事は単調だったようだが、その間にもカーネギーは独学で電信技術について学んでいた。ある時、電信技術者の留守の時に極めて重要な電信が届き、彼はとっさに機械を操作して無事、電信を受信させた。これは完全な社内規定違反だったが、上司がカーネギーの能力に着目して電信技術者に抜擢した。電信技師としての働きはたちまち評判になり、今度はペンシルバニア鉄道の副社長であったトマス・アレクサンダー・スコット氏から、秘書兼電信技師としてスカウトされ、彼の下で働くことになった。
スコットの下で働いたこの数年間でカーネギーは経営のイロハや財務などをすべて学び取り、最終的にはスコットの片腕として鉄道会社の経営者となっていた。スコットはカーネギーをかわいがり、彼の資産形成についても指南していた。これから伸びそうな会社の株を買うことを勧め、カーネギーはスコットに指導されたことを忠実に守り、貯めたお金を株式に積極的に投資した。やがて株価は上昇しカーネギーの資産額は急拡大する結果となった。
やがてカーネギーは、これらの資金をもとに、空前の資産を形成する原点となった鉄工所の経営に乗り出すことになる。31歳の時である。そして40代の後半には鉄鋼業界では最大手になるまで事業は拡大していた。