本田宗一郎氏は言わずと知れたホンダ創業者であり、もはや説明の必要はないだろう。ただ宗一郎氏は経営者としてあまりにも有名になってしまったことや、ホンダという企業イメージから、技術の鬼としてのイメージばかりが先行してしまっている。
宗一郎氏は確かに技術の鬼だったが、ただ技術に強いだけで大富豪になれるわけではない。彼は破天荒な天才実業家であり、根っからの商売人だった。
税務署とケンカしてホースで水をぶっかける
宗一郎氏は1922年(大正11年)高等小学校を卒業すると、自動車修理工場であるアート商会に入社。最初の半年は社長の子供の子守ばかりだったそうだが、数年の厳しい丁稚奉公に耐え、のれん分けという形で独立することに成功している。
自動車修理の事業は順調に拡大し、社員50人のちょっとした企業となった。宗一郎氏は青年実業家として地元浜松では有名な存在となり、たびたび地元紙の3面を飾っていたようである。
当時としては超高級品であった自家用車を2台も乗り回し、多くの芸者さんを呼んでスケールの大きい宴会をたびたび催した。芸者さんを乗せて酔っ払い運転をして天竜川に落ちたり、税金をめぐって税務署とケンカし、腹いせに税務署にホ−スで水をぶっかけるなど、数々の武勇伝が残っている。今でいうところのヤンチャなカリスマ青年実業家といったところだろうか。
しかし、宗一郎氏はこのレベルで満足するような人物ではなかった。自動車修理のビジネスだけでは物足りず、部品の製造に乗り出し東海精機重工業(現在の東海精機)を設立し社長に就任するのだが、これがのちに宗一郎氏の人生を大きく左右することになる。自動車メーカーとして先行していたトヨタに部品を納入することになったからである。
やがて東海精機はトヨタからの資本を受け入れ関連企業となった。戦争中に発生した三河地震で工場が被害を受けたことをきっかけに宗一郎氏は会社をトヨタに完全に売却。その売却資金が戦後、ホンダがスタートする軍資金となった。今はライバルとなっているホンダとトヨタだが、当時から深い縁があったことが分かる。