永守重信氏は今や日本を代表するメーカーのひとつとなった日本電産の創業者である。永守氏は、素晴らしい技術を持ちながら経営不振に陥った企業を次々と買収し、再建に導いたことで知られる。徹底的にモノ作りにこだわる姿勢から、一般的には技術の鬼といったイメージで語らることが多いが、本田宗一郎氏と同様、単純に技術の鬼だけで、巨大な資産を形成することはできない。大きな富を得るためには、ビジネスのセンスがどうしても必要なのだ。
高校生の時にすでに学習塾と株式投資で大儲け
永守氏は太平洋戦争も終わりに近づいた1944年、6人兄妹の末っ子として生まれた。小学校3年生になった時、永守氏が経営者を志すきっかけとなる出来事が起こる。
お金持ちの同級生の家に遊びに行った永守氏は、これまでに食べたことがなかったご馳走を口にしたという。それはチーズケーキとステーキだった。あまりのおいしさに「お前の親父はどんな仕事をしているんだ」と同級生に聞くと、同級生から返ってきた答は「俺の親父は社長や」というものだった。永守氏は「こんなにウマイモン毎日食べられるんやったら僕も社長になる」と思ったそうである。
今でこそ、技術の鬼と言われる永守氏だが、実業家になるモチベーションが、ご馳走だったというのは意外といえば意外である。だが、こうした純粋なモチベーションが、ビジネスの原動力になるケースは多く、逆にこうした感覚が商売人としてのセンスを養うという面は否定できない。
あまり知られていないが、永守氏は日本電産を創業する前に、すでに商売人としてかなりの成果を上げている。高校生の時に、学費を稼ぐ目的で学習塾を運営し、サラリーマンの月収の3倍以上の収入を稼いでいた。さらには、高校生だというのに株式投資を始め、かなりの金額を稼いでいる。
株式投資は社会人になってからも続き、一時は熱を入れすぎて、1億円近くの損を出したこともあったという。永守氏が社会人になったのは1960年代の後半なので、今の価値に換算すると3億円以上だ。つまり、20代の前半で永守氏は3億円以上の資産を持っていたことになる。
永守がサラリーマンを辞め、日本電産を創業したのは28歳の時である。開業資金は今の価値で6000万円くらい必要だったそうだが、永守氏はこれも自前で用意した。