この記事に関心を持つ方ならば、フェラーリ社の創始者がエンツォ・フェラーリであることは間違いなくご存じであろう。何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、実はよく考えてみればこれは凄いことでもあるのだ。
あなたは世界の自動車メーカーの創始者の名前をどのくらい知っているであろうか。スーパーカー世代の方なら、フェルッチョ・ランボルギーニくらいは出てくるかもしれない。ポルシェ・・・、何ポルシェだったかな? それなら、ヘンリー・フォード。さすが良くご存じ。しかし日本の自動車メーカーはどうであろう。本田宗一郎は出てくるかもしれないが、他はどうだろうか?そのように考えると、この総従業員数が数千人で、年間に8000台くらいしかクルマを売らない自動車メーカーの創始者の名前を皆が知っていることは、決して当たり前のことではない。
それだけではない。創業者エンツォ・フェラーリとはどんな人物であるか、ということまでも多くの人が理解している。拙著「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」(KADOKAWA)から少し抜粋してみる。
「フェラーリの凄さは何をおいてもエンツォ・フェラーリという創業者のパーソナリティの存在感が未だに薄まらず存在しているという点だ。1898年生まれといえば日本では宮沢賢治や井伏鱒二の時代である。その100年以上前の人間の生き様が現在でもリアルに生きているかのように語られているというのも凄い。エンツォはアルファロメオのスポーツ・ディレクターを務めた後に、スクーデリア・フェラーリというアルファロメオのレーシング・チームを起こし、第二次大戦後はオリジナルのマシン、フェラーリを製造することになる。当初より北米マーケットにてカーマニアやアマチュアレーサー達に利益率の高いモデルを販売し、その売上をベースとしてF1などのモータースポーツへ参戦するための資金を確保するという黄金の事業構造を確立する。レーシングドライバーとしてのスキルは平凡であったと言われているし、技術においても特筆して明るかった訳でもない彼がレース界の主役となれたのは、その類まれな人心収攬術と情報操作術にあったようだ。」
そう、多くの方がエンツォ・フェラーリといえばサングラスをかけた苦虫を潰したような表情の大柄な男の姿を思い浮かべるだろうし、レース活動への資金を捻出する為に市販車を売るというビジネススキームを早い時点から確立した人物であることも。
勝利を獲得したレースの名前を市販車両に付けたモデルを限られた数量のみを作る。そして、売り切れた後は、どんなに売ってくれといっても増産することはなく、それを買い損ねた人のココロに、早く決断しなかったことへの後悔を植え付けた。だから、次に新しいモデルを発表するとエンツォから、ささやかれるなら、大喜びで買ってしまう従順なマニア軍団が誕生した。これは、まさにバブル状態とも言える、現在のスーパーカービジネスの原点というべきものだ。
エンツォはレースに関して考えることでアタマが一杯であったから、ロードカー(一般顧客に売るクルマ)に対しては、あまり拘りがなかったとされている。だから、その”マニア軍団”達が何にシビれていて、どこをくすぐればよいか、だけを考えればよかった。彼らに関心のないところは手抜きをしても構わないのだ。何より重要なのはレースで今、活躍しているモデルを連想させるようなスペックや名前、スタイリングなどを持っているかが、最も重要なのだ。だから、クーラーが良く効くとか、クラッチの持ちが悪いなどという細かいことは無視してもよいと割り切った。
そんなすぐ壊れるクルマが売れるだろうか、と思うあなたは常識人だ。その時期、そういう欠点を潰して建て付けの良いボディや、良く効くクーラーを持ったライバルの実用的なマセラティと比較して頂きたい。クルマ作りに細かい拘りを持つと製造にも時間が掛かるし、何度もテストしたりするから製造原価がどんどん上昇する。だから、フェラーリはマセラティと比べて製造原価が安いにも関わらず、1.5倍ほど高価な値付けをすることが出来た。
派手なフェラーリの方は少々高くても、壊れてもいいという”良い”顧客をたくさん持っていたからだ。
エンツォは細かい拘りはなかったが、「フェラーリは12気筒エンジンを搭載しなければならない。そして作っても良いのは2ドアだけである」という2点だけは社訓のように拘った。そのブランディングが70年経った現在もフェラーリというブランドを支えている。もう一つ言えば、クルマが壊れたなら、メーカーは修理でまた儲けることができる。特殊な構造のフェラーリはどこでも直せる訳ではなかったのだから、適度に壊れることは美徳だったのだ。