彼は情報の収集とコントロールに関して、かつてジャーナリストを目指したという逸話があるように、独特の手法を持っていた。不都合な情報へは強い圧力を掛け、お墨付きの「自伝」をベースとして記述するように強要したこともあった。ともかく、なかなか気難しく、本音を語らないパーソナリティであったことは、多くの人々が証言している。
そういった頑固な一面を持ちながらもエンツォはビジネスマンとして卓越していたのも事実だ。いや、その頑固なパーソナリティですらブランド形成の戦略であった。
エンツィは絶えずビジネスとして“お手本”を探していた。モータースポーツへの関与を志した時にはブランド構築のお手本をブガッティとし、アルファロメオをうまくビジネスパートナーとして活用しながら、ターゲット顧客を綿密に分析していった。
それは市販ロードカー戦略においても同様であった。北米のレーサーであり実業家であったルイジ・キネッティを使って富裕アマチュアレーサーにフェラーリの販売ルートを構築した。エンツォは単に販売を彼に任せるだけでなく、ターゲットとするユーザーの好みを巧みにリサーチし、顧客の好みを分析した。コアユーザーの愛するアメリカ車のテイストも取り入れながら、そこにイタリア的な味付けを加えた。
アメリカ人のイタリアンデザイン・コンプレックスを突いたスタイリング提案を実現できる強力なパートナーとして、エンツォはカロッツェリア・ピニンファリーナとイタリアにおけるハイパフォーマンスカー・カテゴリーにおける専属契約を結んだ。以降、フェラーリがマセラティを傘下に収める1997年まで、マセラティはピニンファリーナへボディ製作の依頼をすることはできなかったのだ。
ここで、拙著「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング(KADOKAWA)」からエンツォのロードカー戦略の部分を引用してみよう。
“北米をターゲットとして発表した250シリーズは大ヒットしたが、その開発のためにエンツォが大きな投資をすることはなかった。顧客はレースにおけるフェラーリの栄光のイメージを得たいがためにロードカーを買い、ビバリーヒルズの街中で見せびらかすのであって、ハードウェアとしての完成度を主に求めているわけではないという割り切ったコンセプトで各モデルは作られたのだった。果たしてこの250は決して快適なクルマではなかった。オーバーヒートするエンジン、重いクラッチ、うるさいキャビン……。V12気筒エンジンが搭載されているものの、製造原価はマセラティの直6エンジン搭載のシリーズよりかなり安価にも関わらず、250はマセラティの1・5倍ほどの価格で販売された。それはフェラーリのロードカーたるもの、レース活動のための利益を出すことに存在価値があるというエンツォの戦略そのものであった。この割り切ったコンセプトは、まさにスーパーカー作りの原点ともいえるかもしれない。”
エンツォはレースに対する並みならぬパッションを持っていた。しかし彼の凄いところは、ビジネスとして成立させるための努力を怠らず、絶えずビジネスを継続させるためには自分が何をすればいいかを考え続けたことであろう。そしてその“掟”は現在のフェラーリにも受け継がれているのだ。
それにつけてもエンツォの想いを受け継ぎ、フェラーリを動かしていたセルジオ・マルキオンネ フェラーリ会長が今年の7月25日に66歳にして亡くなったのは不幸なことだ。モンテゼーモロ会長の後を継いだマルキオンネがフェラーリの将来に有益な経営者であるかどうか、その真価が試されるまさにその時期であっただけに残念だ。
エンツォのことだ。きっとあの世で、この騒動を見て、ああすべき、こうすべきとじたばた騒いでいるに違いない。
越湖 信一(えっこ しんいち)
EKKO PROJECT代表
イタリアに幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンタメビジネスに関わりながら、ジャーナリスト、マセラティクラブオブジャパン代表として自動車業界に関わる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリストとして活動する他、クラシックカー鑑定のイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に「Maserati Complete Guide」など。
フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング
KADOKAWA/角川マガジンズ 2,484円
現代の日本のものづくりには、長期的に見て自分達のブランド価値を下げたり、本来苦手なコモディティビジネスに自らを落とし込む悪い癖がある。クルマに興味の無い人にこそ、是非この本を読んでもらいたい。機能的に理に適っていないスーパーカーにこそ、人間が無駄なものを欲しがる本質のヒントがある。(カーデザイナー 奥山清行)